昭和五十五年四月二十七日 朝の御理解
御理解第三十七節 「生きておる間は修行中じゃ。ちょうど、学者が年をとっても眼鏡をかけて本を読むようなものであろうぞ。」
一生が修行。修行という受け方には必ず信心の喜びと驚きが伴のうて来る。もう苦しいことは修行と思とりますという程度の事ではいかん、ね。しかも一生なのですから、言うなら修行のしがいのある、言うなら打ち込みがいのある手応えというものがなからなければ一生がそれこそ苦しいことのみ多かりきになってしまうね。ですから本当に修行がおかげでこういうお徳も力も受けられるようになったという修行でなからなければなりません。なかなか神様が受けて下さる修行として、一般では苦労を修行として受けぬくという人が少ない。せっかく信心をさして頂くのであるから、しかも一生が修行と言われるのですからね、その一生の修行が丁度学者が眼鏡をかけて、年をとっても本を読むようなものであろうぞいと仰られるね。何もないのに本を読みはしませんね。言うなら学問がどんどん身に付いて来る、いよいよ深く広く言うなら知識が増えていく、まあ言うならば学徳が身に付いていく、この年になるまで本を読まなんとはきつい事であるというふうには言わない。それこそ眼鏡をかけてでも本を読む。それはどんどん学徳が言うなら学問の力がついていくことが、それがもう楽しい有難い。信心もそうでなからなければならんのである。この難儀からいつ解脱が出来るであろうか、抜け出れるであろうかといったような時には修行が苦になっておる時であるね。だから本気で苦労と四つに取り組むという、そして、けっこうな修行がさして頂けるでなからねば。
昨日の研修の時、高松和子先生がお知らせを頂いた。栄四郎先生と二人で一生懸命にその基礎作りのように何か打ち込んでいる。ところがそれが沼田、ドロドロするような柔らかい土地、何ぼ打ち込んでも打ち込んでもまあ目には見えない、打ち込んだように見えないというお知らせであった。栄四郎がいるという事は栄える城(四郎)と、番号つけとかにやいかんと思うて、三番目のが幹三郎、四番目ですからだいたいは栄える城と頂いた。いよいよ繁盛のおかげを頂かして頂くということは、只今和子先生が親子で修行中なんですね、ですから修行中の間はね、決して目に見れて城が立っていくことはない。打ち込めども打ち込めどもね、本当の打ち込みになっているだろうかと思われる位にあるけれども、その今、修行中の時こそいよいよ本当の栄えるもとを、力を頂いている時なんだという御理解でしたね。栄四郎がそこにおって沼田の所へ何かを打ち込んでいる。打ち込みがいのあるような手応えを感じない、だから手応えというのはそういう時じゃない。手応えというのはそこに神様を感じる、信心の喜びと驚きの度合いが大きくなっていくという事が手応えなんです。これだけ信心しよるのに一つもおかげ頂かんというのじゃないね。
昨日は住友銀行の頭取さんから大変手厚い文章の手紙を頂いた。お取引を頂いて有難いという意味なんです。商売だから頭取さんが出すのは当たり前、いいんだけども私がその前月悲しい淋しいお夢を頂いておった。昔貧乏しておった時分のような感じで、二十五銭のお金がない。ある所でどうしても二十五銭出さんならんのに無い。椛目の中島泰郎君と力君がまだ小さい。二人が二人乗りして自転車でその家にやって来た。この二人の子供が二十五銭だから借りようと思うて、あんた二十五銭持たんかと言うたら、いいや金は持たんと言う。それで大変困っているところで目が覚めた、ね。もう本当に二十五銭のお金でも難儀しておったというところからね、今日ここで六億もかかる御造営が出来ていっておる。しかもお金が必要な時には必要に、それこそ住友銀行さんじゃないけど、いる時は使って下さいというて頂けるようにおかげ頂いておる。いわゆる二十五銭の金がなかった時には、これほど信心するのにどうしてこんなに貧乏せんならんのかという時代。その時分の私の信心の内容というものは、久保山先生じゃないけれども、こういう難儀な中に本当に大坪さん有難いとですかと言うておられました。ところが私の心の中にはもうそれこそ有り難うして有り難うしてというものがあった、ね。その時分の私の有難い有難いというのを、今の総代の正義先生が若い時、お互いに若い時ですけども、それこそ大坪さんの後ろには後光がさしとるような感じと言うとりました。そのように有難かった。だから手応えというのはそれだ。いくら信心してもと、じっと手を見るといったような時代ですけど、じっと手を見るのじゃない、じっと自分の心を見極めて神様の心の奥が分かっていくという時でなからなければならないという。
この難儀がいつになったら楽になるだろうかというような事では修行にならんね。打ち込んでも打ち込んでも打ち込みがいが形に見えないけども、自分の心の中にはいよいよ有難いものが生まれて来るという、その度合いが強うなって来るという修行であって初めて栄四郎の栄城になってくるのである。
昨日、箱崎教会の先生がお参りになった。ここの大祭を頂いて帰らして頂いたら、ある信者が持って来て下さったのが、見事な紫のふろしきに亀の甲がついておる、あけてみると合楽寿司という寿司のお供えであった。もうビックリ仰天しましたというてお届けがありました。寿司を頂いたから有難いのじゃないね。それこそ教会あげて、二人の息子はここに来ておる、夫婦で合楽の信心を体得しておられる。なかなか由緒ある教会であるね。別に合楽とは関係を作らんでもいいような教会なんだけども、合楽の信心が分かるようになり、最近では箱崎教会の中に和楽路会ができて生き生きとした信心共励ができておる。合楽の信心で有難い有難いと思うておるところに、その紫といや合楽の色、安心の色、しかも亀の模様、開けてみれば合楽寿司。合楽寿司なんてどこにあるだろうかと、それが福岡にあるという。同じ字でね。言うなら信心の喜びと驚きがついて回っとる訳ですね。その信心の喜びと驚きが頂けれるような修行でなからなければならんという事なんです、ね。
只今修行中の高松和子先生が、形の上には別におかげは見えないけども、心の中にそういう信心の喜びと驚きが頂けておるか、頂いておらねば栄四郎のおかげになって来ないぞという訳でございますから、ね。しかも一生が修行と言われるのですから、いよいよ同じ修行であっちゃなりません。けれども一段一段高度の修行になっていく。それが学者が眼鏡をかけて本を読むように楽しいのであり、有難いのである。学問が身に付くのである。深く広くなっていくのである。
昨日、浅野というお医者さんで、有名な糖尿病の権威といわれる位に糖尿病の研究をなさっている先生、山口支部の浅野さんの息子さんです。兄弟二人で昨日参って来た。それでその研究のヒントを頂くということで、いつもお伺いがあるんです。ある所に行き詰まりを感じているから、どういう生き方あり方をしたらいいかのお伺いであった。神様にお願いさして頂いたら、高めるよりも深めよと頂いた。信心も高めるばかりでは届かん。高度の信心も自分が行じきれない高度のものだったら手が届かん。やっぱり学者ですからね、それを聞いたらははあと分かんなさるとですよね。深めるという事はどういう事かと言うと、今まで研究してきた事をもういっぺん始めからやり直してもっと深さ広さというものに検討し直せと。その研究に深さを頂けというご理解だった。ね、言うならばそういう研究を、それこそ実験、実証です。実験を何回も何回もやるけれどもよい結果が生まれてこない。実験、実証というのはそうなんですよ。いっぺん実験したけどおかげ頂かじゃったじゃダメです。何べんも何べんもこれはまだどこかに間違いがあると思うて、それを改め改めして実験していかなん、そこに間違いのない実証が生まれて来るんです、ね。そういう信心を、またそういう修行をさせて頂きながらの一生の修行でなからなければ、それこそ一生がきつい一生であったと言わなきゃならんね。あの苦労が修行と切り替えられてからね、その修行が生き生きと言うなら次の力にお徳に、そしておかげにつながっていくような修行をさして頂きたい。
一生が修行。一生がせっかく修行ならばね、一生が勉強という事になるのではないでしょうかね。けれどもその勉強は学問が深く広く分かっていくだけではない。これが学徳であろうかと言うならばお徳が身に付いていく。それが自分で感じられるね。どれ打ち込んでもいっちょんおかげに現れて来ないというようなものでなくて、一生懸命の修行をさして頂いておる時にはね、むしろ形の上ではこれでおかげになるだろうかと思うけれども、間違いのない神様の働きがその前後にね、安心ぞ、合楽とつながっておるぞと、しかも開いてみたら合楽寿司だったというようなね、そういう只驚いてしまいましたという喜びと驚きが伴った修行でなからなければならないという事ですよね。どうぞ。